西暦1063年の8月に、源頼義が石清水八幡宮護国寺を鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請したのが始まり。
もともとは現在の材木座1丁目に勧請されていたのが、1191年、社殿の焼失から現在の上宮・下宮という体制になり、改めて石清水八幡宮護国寺がされたそうだ。
鎌倉幕府が開かれたあとは、源義家が社殿の修復をした経緯から武家の崇敬が厚く、鎌倉幕府の衰退に伴って一時衰退するが、江戸幕府の庇護を受け、規模も大きくなっていったという。
鳥居から太鼓橋を横に過ぎると、参道が長く続く。
石畳の敷かれた参道には、多くの人が行き交う。
参道から楼門、本宮までを見渡せる景色はとても迫力があり、足を停めてカメラを構える人も多い。
手水舎は、社殿と同じ色彩に装飾されたもの。
全体を朱塗りとして、彫刻や軸部に彩色が施されている。
最初に見える社殿は、下拝殿とも呼ばれる舞殿。
源氏にまつわる物語には、頼朝の求めに応じた静御前が、鶴岡八幡宮で舞ったという話があるが、この時代には舞殿は建っていなかったため、若宮の回廊で舞ったのだといわれている。
舞殿の後ろには、61段ある大石段がある。
この石段の横には大きな銀杏が立っていたが、2010年に倒れてしまい、現在では幹だけが残っている。
左右に狛犬が並び、上った先には楼門が建つ。
瑞垣に囲まれ、楼門の奥に建つ拝殿、本殿は撮影禁止となっており、掲載することが出来ないが、鮮やかな色彩と彫刻が美しい社殿。
特に脇障子の彫刻は非常に彫りが深く、極彩色が施された見事で印象深いものとなっている。
大石段の下、舞殿の横に建つ若宮。
鶴岡八幡宮の下宮とされるこの神社には、仁徳天皇、履中天皇などの神々を祀っている。
国指定の重要文化財に指定されているこの社殿は、上宮の社殿と同じように全体を朱色に塗られている。
全体的に上宮ほどの目に留まるような派手な装飾はないものの、本殿は五間社の大きな社殿となっている。
社地の奥に建つ白旗神社。
鎌倉幕府初代将軍の頼朝と、三代将軍の実朝を祀る。
社名は、源氏の白旗に因んで呼ばれているそうで、日本全国に70社を超える神社があるという。
社殿全体を黒く塗り、長く突き出した庇の4本の柱は、面取りした四隅を赤に塗り、肘木で桁を支えている。
上宮の華やかさとは違った趣があり、重厚な印象は武家を祀る神社としての迫力がある。
社地内にある源平池と呼ばれる東西の池。
北条政子が掘らせたと言われるこの池には、源氏池と言われる島を3つ浮かべる東側の池と、平家池と言われる島を4つ浮かべた西側の池がある。
そのうちの東側の源氏池の島に建つ旗上弁天社は、1182年に北条政子の命で平家滅亡を祈願して池を掘った際に建てられたのが始まりという。
明治の神仏分離令のために衰退していたのを昭和55年に古図をもとに復元された。
所在地 | 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1番31号 |
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ホームページ | http://www.hachimangu.or.jp/ |
上宮
祭神 | 応神天皇・比売神・神功皇后 |
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本殿 | 文政11年(1828) 国指定重要文化財 |
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建築様式 | 九間社流造 銅瓦葺 |
幣殿 | 文政11年(1828) 国指定重要文化財 |
建築様式 | 桁行四間梁間一間 一重 両下造 銅瓦葺 |
拝殿 | 文政11年(1828) 国指定重要文化財 |
建築様式 | 桁行三間梁間二間 一重 入母屋造 銅瓦葺 |
下宮
祭神 | 仁徳天皇・履中天皇・仲姫命・磐之媛命 |
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本殿 | 国指定重要文化財 |
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建築様式 | 五間社流造 銅板葺 |
幣殿 | 国指定重要文化財 |
建築様式 | 桁行四間 梁間一間 一重 両下造 銅板葺 |
拝殿 | 国指定重要文化財 |
建築様式 | 桁行三間 梁間二間 一重 入母屋造 向拝一間 銅板葺 |
この記事をご覧いただいた方のコメント

つい数年前まで、3代将軍源実朝の暗殺現場とされる大銀杏が残っていたという不思議。それが今はないという不思議。長く残ったものは今後も永久にあり続けると錯覚しちゃうけど、ある日突然なくなっちゃうこともあるんだよね。石階段の左脇に大銀杏がない八幡宮なんて、子供の頃は思いもしなかった。