新海三社神社

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新海三社神社

しんがいさんしゃじんじゃ

佐久市田口2329

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新海三社神社 新海三社神社

佐久市の旧臼田町に建つ新海三社神社は、入り口に非常に大きな鳥居を持ち、山の傾斜を上るように立派な社叢が育っている。

新海三社神社 参道の石段を上ると、まずは拝殿が正面に見え、その脇に神楽殿。
非常に静かな佇まいは、とても落ち着いた雰囲気を感じさせてくれるため、じっくりと落ち着いて社殿を見ることができる。
本殿、神楽殿ともに素木造の簡素な装飾となっており、大きな社叢の中に静かに鎮座しているように見える。

新海三社神社 新海三社神社

朱と彫刻に彩られた二つの社殿

新海三社神社 新海三社神社

新海三社神社の本殿は、三つの社殿が並んで建っている。
素木で作られた拝殿の質素な雰囲気とは一変して朱と彫刻が見事な流造。

向かって右側に建つ一間社の本殿は中本社。
母屋の円柱には縁長押、半長押・内法長押が打たれ、拳鼻付の頭貫を通している。
組物は連三斗、肘木には水繰が付けられ、中備は蟇股、薄肉彫の鶴竹に雀など彫刻が入っている。

新海三社神社 妻飾は二重虹梁、二重目は、丈の短い双斗付の大瓶束で受け、中備に板蟇股をいれ、棟木も大瓶束で受けている。
脇障子が付けられた側面には、縁が回されているが、こちらは正面には付いていない。
母屋正面には幣軸が立てられた板扉があり、木階が取り付けられている。
向拝は大面取の角柱が使われており、中央が湾曲した虹梁形の貫を入れて、両端に木鼻を付けている。

新海三社神社 向かって左側の西本社は、母屋を中本社と同じような軸部形式としており、中備は正面が蓑束、妻側は薄肉彫刻入りの蟇股としている。
妻飾も中本社と同じように二重虹梁にしているが、大瓶束のかわりに双斗付きの軍配形彫刻で受けている。
縁や脇障子、板扉などは中本社と同じように付けられており、正面の形式も同様のものとなっている。

新海三社神社 組物・中備は中本社と同じで、母屋とは海老虹梁でつなぐが、中央の柱上は海老虹梁とせず手挾を入れている。
建築年代は、元禄12年の請負証分と元禄13年の棟札があるため、どちらの社殿も、この2年間の工事だったとされている。

室町時代の様式を残す重要文化財
新海三社神社 新海三社神社

この社殿は一間社流造で、浜床がとても高く造られている。
木鼻は母屋のものより、向拝の方が複雑になっており、やや象鼻化しているところから、後の時代に補われたものではないかという推測がされている。

新海三社神社 母屋の木鼻は、上に笹葉を陽刻しており、若葉文様に進む一段前の段階を示している。
海老虹梁もあり、禅宗様が入っているが、実肘木は桁と一木で桁隠まで通り、繰形付の実肘木にはならない。
向拝柱は六・七分の一と大きく、母屋柱は床下まで断面は円で古風である。
木鼻の絵様繰形も、向拝のものを後補とみれば、渦だけのものから若葉付の文様に進む前の状態で、比較的古い形を示しており、海老虹梁や蓑束などから見ても建立年代は室町中期といえる。

新海三社神社 社地の奥に建つ三重塔は、もともと新海三社神社の神宮寺のもの。
明治維新の廃仏毀釈で、寺は300mほど西南方に移り、塔はそのまま神社に属している。

塔を支える礎石は自然石が使われ、柱は床から下を八角形にした円柱で、足固貫・腰貫・頭貫を通して、縁長押・頭長押を打ち、台輪をおき、三手先組物をのせている。
組物は和様となっているが、肘木の曲線は円弧となっており、実肘木には絵様繰形をつけ、拳鼻がある。
中備は間斗束であるが、斗だけで束はない。
このような形式は、他にも見られ、この地方で流行したらしい。
二、三重は平三斗の腰組を設け、切目縁とし、刎高欄をおく。
各重とも中央間は扉、脇間は板壁である。相輪は普通の形式であるが、水煙の輪郭が長方形なのは変っている。
新海三社神社 注目すべき点は各重とも和様三手先組物としながら、頭貫に木鼻をつけ、各重で絵様繰形をかえ、各重とも台輪をおくが、三重だけ台輪の木鼻を造り、垂木は二重であるが、初重だけ脇間中央から外を扇垂木にし、各重地隅木先は禅宗様と同じく絵様繰形をつけ、初重扉は桟唐戸とするが、二重・三重は板扉とするなど、それぞれ自由にデザインしていることである。
同じ三重塔で、禅宗様を採り入れたものの一つに、愛知県豊川市の三明寺三重塔がある。
こちらは一、二重を和様として、三重全てを禅宗様としている。
塔は禅宗様を採り入れたものが少ない。

新海三社神社 初重内部は内法長押上に小壁をつくり、四天柱はなく、後補の格天井としている。
奈良時代以来、中央間左右の柱上の組物の肘木は長い通肘木として相対する組物とつなぎ、これらが井桁に組まれているから、構造的には側柱上に四角な箱をおいたような形となり、これが強固に組まれれば四天柱の構造的意味は少なくなり、前二本を略し、あるいは大法寺三重塔でみられるように、来迎柱を後退させることもできる。
もちろん平安時代末以来、心柱もこの枠上におかれた梁上に立つから、二重目でとまり、初重は広く使えるようになる。
二重目の側柱は、大法寺三重塔では地垂木上におかれた盤上に立てられ、垂木をおいてから二重目が作られるようになっている。
この塔と前山寺三重塔とでは前後左右に井桁に通肘木を組んだすぐ上に盤を置き、二重の柱はこの上に立ち、初重の柱の内方部分はこの盤の下まで延び、僅かにこの柱盤の荷を支えるようになっている。
要は垂木尻を柱盤でおさえ、天秤状にして荷重を支える方法が、初重の構造部を組み終えると、すぐその上に二重の柱が立てられ、尾垂木の尻は二重目柱間に渡された横架材に取り付いたり、二重目柱に柄差鼻栓になって、各重の軒が塔の構造体でなくなったことである。

所在地佐久市田口2329
ホームページなし
祭神健御名方命・興波岐命・事代主命
中本社17世紀末期または18世紀初期
大工肝入八郎兵衛・清左衛門
建築様式一間社 流造 鉄板葺 一棟
西本社17世紀末期または18世紀初期
大工肝入八郎兵衛・清左衛門
建築様式二間社 流造 鉄板葺 一棟
東本社重要文化財
室町時代中期
建築様式一間社 流造 檜皮葺 一棟
三重塔重要文化財
永正12年(1515)風鐸銘
建築様式三間三重塔婆 柿葺 一基
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この記事をご覧いただいた方のコメント

お名前:匿名さん

神秘的な良い雰囲気でした。

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