亀原和太四郎の建築

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亀原和太四郎の建築

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亀原氏は、現在の小布施町や高山村、須坂市の一帯を差す高井郡で活躍した大工として知られている。

高杜神社本社
高山村高杜神社本社

江戸時代中期から4代に渡って近世の社寺建築に関わり、特に高井郡に限り建築や彫刻を残している。
江戸時代、亀原氏の高井郡は越後との国境に近く、越後からの作風が入り込んだり、また立川流や大隅流の建築が隆盛を極めている中で、亀原氏の作風を残していった。

牧善太夫嘉康

大工亀原氏の初代、嘉重の父親。
江戸で建築や彫刻の腕を磨き、木原杢之守について学んだという。
その際に木原氏より、「木原」の姓を与えられたことから、亀原を名乗ることになったそうだ。
知られている建築では、須坂市の元徳寺御堂がある。

雁田水穂神社
小布施町雁田水穂神社

亀原和太四郎嘉重

1744~1818年
亀原氏といえば「和太四郎」と名乗っていることが知られている。
立川流の初代和四郎富棟と同年生まれで、その名も似ていることから、張り合って名乗ったと言われていることもあるが実際は関係がないそうだ。
小布施町の雁田水穂神社本殿や、高山村の高杜神社本社拝殿が知られている。

亀原和太四郎嘉貞

~1866年
2代目の嘉貞は初代嘉重の子で、和太四郎と呼ばれてはいるが、実際に和太四郎と書かれた棟札は存在しておらず、亀原武平太としての名が残っている。
小布施町の飯縄神社や、大島神社の鳥居や拝殿に「棟梁武平太」という銘が残っているという。
他に知られている建築としては、同じく小布施町の欅原神社本殿、須坂市の西福寺が残っている。
嘉貞は高井鴻山に絵を習い、京都の大仏師に彫刻を習い、小布施町の根岸家から漢学を学んだと言われており、そのためか小布施町周辺に建物が多く残されている。

亀原和太四郎嘉博

1798~1870年
2代目和太四郎の武平太が、妹の嫁いだ家から養子をもらい、その子が3代目の和太四郎として活躍をした。
京都で修業を重ね、2代目和太四郎が武平太と名乗っているのにも関わらず、彼に敬意を表して2代目とし、自らは3代目和太四郎と名乗った。
高山村の牛窪神社の建立をし、小布施町では葛飾北斎や高井鴻山と合作をした屋台飾り人形が残っている。
また、嘉博の長男も大工として活躍をし、牛窪神社では「亀原和蔵嘉哲」として名を残している。

墨坂神社芝宮
須坂市墨坂神社芝宮

亀原和太四郎嘉照

1845~1921年
3代目和太四郎嘉博の長男が和蔵として、二男が4代目和太四郎として活躍をした。
もともとは九三郎嘉照と名乗り、明治から大正にかけて活躍をしたのだが、明治13年の1880年に須坂市の奥田神社拝殿を和太四郎嘉照という墨書きをしている。
その他には、高山村の天満宮や、須坂市の墨坂神社芝宮の祝詞殿、興国寺の山門などがある。

4代目以降の亀原氏は、嘉照の4男が家督を継ぎ高山村の天満宮では棟札に墨書きをしている他、日活撮影所に入社をし活躍をしたという。

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